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はじめに
そば屋のお品書きを見ると、「更科そば(通常のそば)」のほかに「田舎そば」というメニューが並んでいることがあります。白く繊細な更科そばに対して、黒っぽく太めの田舎そば。この対照的な二つのそばは、日本のそば文化の奥深さを象徴する存在と言えるでしょう。
田舎そばは、そばの実を殻ごと挽いた「挽きぐるみ」と呼ばれるそば粉を使用し、無骨で野趣に富んだ風味が特徴です。洗練された都市部のそばとは一線を画す、素朴で力強い味わいは、そば本来の香りと食感を存分に楽しめる逸品です。
初めて田舎そばを口にしたとき、その濃厚な香りと噛みごたえのある食感に驚いたことを今でも覚えています。更科そばの上品さとはまったく異なる、大地の恵みをそのまま感じさせるような力強さ。一口すすると、そばの実の風味が口いっぱいに広がり、「これこそがそばの本質なのか」と感じ入ったものです。
殻ごと挽く、そばの素顔
田舎そばの最大の特徴は、そばの実を殻ごと挽いた「挽きぐるみ」のそば粉を使用している点にあります。一般的なそばは、そばの実の中心部から順に「一番粉」「二番粉」「三番粉」と分けて製粉しますが、田舎そばはこれらすべて、時には四番粉まで含めた粉を使用します。
そばの実は、中心から外側に向かって「胚芽」「胚乳」「種皮」「殻」という構造になっています。中心部の胚乳は白く、外側の殻や甘皮は黒っぽい色をしているため、これらを含めて挽いた粉で打ったそばは、必然的に黒っぽい色になるのです。
この黒い色こそが、田舎そばのアイデンティティ。更科そばが中心部の白い一番粉だけを使用するのに対し、田舎そばはそばの実のすべてを活かす製法と言えるでしょう。太めに打たれることが多いのも、この粗挽きの粉の特性を活かすためです。
そばの風味成分は、実は外側の部分に多く含まれています。だからこそ、田舎そばは香り高く、そばらしい味わいが濃厚なのです。
名称に秘められた歴史の物語
田舎そばという名称の由来には、興味深い歴史的背景があります。一般的には、江戸時代に都市部ではそばの実から殻をきれいに取り除く技術が発達していた一方で、地方ではそうした精製技術が十分に普及していなかったため、殻付きのままそばの実を挽いて使用していたことが由来という説が有力です。
ただし、江戸の食文化を紐解くと、必ずしも単純な都市と地方の技術差だけで説明できるものではないようです。実は江戸市中でも「馬方そば」と呼ばれる挽きぐるみの黒っぽい蕎麦が存在していた記録があり、庶民の間では広く親しまれていたと言われています。
つまり、「田舎そば」という名称は、技術的な制約というよりも、洗練された江戸風のそばの対極にある、無骨で野趣に富んだそばを表す言葉として定着していったと考えられます。「更科そば」が都会的で繊細な美意識を体現するなら、「田舎そば」は素朴で力強い食文化を象徴する存在というわけです。
呼び名の由来は諸説ありますが、結果的に独自の個性と魅力を持つ料理として確立されたことは間違いありません。
黒く太く、香り高い存在感
田舎そばの特徴を一言で表すなら、「そばらしさの極致」と言えるかもしれません。その特徴は、視覚、嗅覚、味覚、触覚のすべてに及びます。
まず視覚的には、黒っぽい色と太めの麺が目を引きます。更科そばの白く細い麺とは対照的で、器に盛られた姿からして力強い印象を与えます。この黒さは、そばの殻や甘皮に含まれる色素によるもので、そば本来の色と言えるでしょう。
香りの面では、そばの実の風味が強く感じられます。挽きぐるみの粉には、そばの実の外側に多く含まれる香り成分がたっぷりと含まれているため、茹で上がった瞬間から豊かな香りが立ち上ります。
食感は、太めでしっかりとした噛みごたえがあり、喉越しよりも「噛んで味わう」タイプのそばです。更科そばのつるりとした喉越しを楽しむスタイルとは異なり、じっくりと咀嚼することで、そばの風味が口の中に広がります。
味わいは、そばの実の風味が濃厚で、やや野性的とも言える力強さがあります。繊細さよりも、素朴で飾らない美味しさが魅力です。
地域が育む多様な表情
田舎そばは日本各地で愛されており、地域によって独自の発展を遂げています。特に山形や信州(長野県)などのそば処では、地元の気候や文化に合わせた田舎そばが作られてきました。
信州では、そばの産地として知られる小諸などで、挽きぐるみの粉を使った黒いそばが伝統的に作られています。地元で収穫されたそばの実をその日に製粉し、打ち立てを提供する店も多く、そば本来の風味を大切にする文化が根付いています。
北海道の音威子府村(おといねっぷむら)では、真っ黒な「音威子府そば」が名物となっています。これは殻や甘皮をそのまま挽き込んだ挽きぐるみの極致とも言える製法で、初めて見る人はその黒さに驚くほどです。
大阪では、そばといえば一般的に黒そばや田舎そばと呼ばれる、殻ごと挽いたものが好まれる傾向があります。関西のそば文化は関東とは異なる独自の発展を遂げており、田舎そばへの嗜好もその一環と言えるでしょう。
また、「藪蕎麦」という呼び名も、田舎そばと関連が深い言葉です。藪蕎麦は江戸の老舗そば屋の屋号に由来しますが、一般的には黒っぽく香りの強いそばを指すことが多く、田舎そばと重なる部分があります。
地域ごとの違いを味わい比べるのも、田舎そばの楽しみ方の一つですね。
挽きぐるみが織りなす風味
田舎そばに使用される「挽きぐるみ」のそば粉は、一番粉から三番粉、または四番粉まで、そばの実のほぼすべてを挽き込んだものです。この製法により、そばの実が持つ栄養素や風味成分を余すことなく活かすことができます。
そば粉の配合は店や製麺所によって異なりますが、田舎そばの場合、そば粉の割合が高い「十割そば」や「九割そば」で作られることも多く、つなぎの小麦粉は少なめです。そば本来の風味を最大限に引き出すための配合と言えるでしょう。
製粉方法も重要な要素です。石臼で挽くことで、そばの実に熱が加わりすぎず、香りを損なわずに粉にすることができます。自家製粉を行う店では、その日に使う分だけを挽くことで、鮮度の高いそば粉を使用しています。
茹で上がった田舎そばからは、濃厚なそば湯が取れるのも特徴の一つです。挽きぐるみの粉に含まれる成分が溶け出したそば湯は、風味豊かで、そばを食べ終わった後の楽しみとなります。
つゆは、田舎そばの力強い風味に負けないよう、やや濃いめに作られることが多いようです。鰹節や昆布の旨味をしっかりと効かせたつゆが、そばの風味を引き立てます。薬味には、大根おろしやねぎ、七味唐辛子などが合います。
打ち方に宿る職人の技
田舎そばの調理法は、基本的には他のそばと同様ですが、挽きぐるみの粉の特性を理解した上での技術が求められます。
そば打ちの工程は、「水回し」「練り」「延し」「切り」という基本的な流れは変わりませんが、挽きぐるみの粉は粒子が粗く、つながりにくい性質があるため、水加減や練り方に熟練の技が必要です。
太めに切るのが田舎そばの伝統的なスタイルですが、これは粗挽きの粉の特性を活かすとともに、そばの風味をしっかりと感じられるようにするためです。細く切ると切れやすくなるという実用的な理由もあります。
茹で時間は、太さや粉の配合によって異なりますが、一般的なそばよりもやや長めになることが多いでしょう。茹で上がりの見極めは、職人の経験と勘が頼りです。
冷たいざるそばとして食べるのが最も一般的ですが、温かいかけそばにしても美味しくいただけます。ただし、田舎そばの持ち味である香りと食感を最も楽しめるのは、やはり冷たいざるそばでしょう。
家庭で乾麺の田舎そばを茹でる際は、たっぷりのお湯で茹で、茹で上がったら冷水でしっかりと締めることで、コシのある食感を楽しめます。
まとめ
田舎そばは、そばの実を殻ごと挽いた挽きぐるみの粉を使用した、黒っぽく太めの麺が特徴の日本蕎麦です。洗練された更科そばとは対照的に、無骨で野趣に富んだ風味が魅力で、そば本来の香りと味わいを存分に楽しめます。
その名称の由来には諸説ありますが、江戸時代の都市と地方の製粉技術の違いに由来するという説が有力です。ただし、江戸市中でも挽きぐるみの黒い蕎麦は存在しており、単純な技術差だけでなく、洗練されたそばとの対比として「田舎そば」という呼び名が定着していったと考えられています。
地域によって独自の発展を遂げており、信州、山形、北海道など、各地で愛される田舎そばは、それぞれに個性があります。そばの実の外側に多く含まれる香り成分をたっぷりと含んだ挽きぐるみの粉は、濃厚な風味と豊かなそば湯をもたらします。
繊細さよりも力強さ、洗練よりも素朴さ。田舎そばは、日本の食文化における多様性を体現する存在です。更科そばの白く細い麺も美しいですが、田舎そばの黒く太い麺には、また違った魅力があります。
次にそば屋を訪れる際は、ぜひ田舎そばを注文してみてください。その一杯から、日本のそば文化の奥深さと、地方の食の知恵を感じ取っていただけるはずです。