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はじめに
春の訪れとともに富山湾を青白く照らす、神秘的な光の帯。それがホタルイカです。わずか4~6cmほどの小さなイカでありながら、その幻想的な発光現象は世界でも類を見ない自然の奇跡として、国の特別天然記念物にも指定されています。
酢味噌和えや沖漬けといった伝統的な食べ方から、パスタやアヒージョなど現代的なアレンジまで、春の食卓を彩る食材としても広く親しまれているホタルイカ。この記事では、その起源や歴史、発光の仕組み、産地による違い、そして食材としての魅力まで、多角的に解説していきます。
深海から浮上する小さな発光生物
ホタルイカ(学名:Watasenia scintillans)は、ツツイカ目ホタルイカモドキ科に属する深海性の発光イカです。雄は約4cm、雌は約6cm、重さはわずか10g程度という小型のイカで、「コイカ」「マツイカ」「ジンドウイカ」などの別名でも呼ばれてきました。
通常は水深200~700mの深海に生息していますが、春の産卵期になると浅瀬へと浮上します。特に富山湾では、数十万匹もの大群が海岸近くまで押し寄せる現象が見られ、これは世界でも他に類を見ない珍しい光景です。
ホタルイカの最大の特徴は、その名の通り体全体に備わった発光器です。全身に700~1,000個もの発光器を持ち、青と緑の光を放ちます。触手の先端には特に強く光る発光器が3個ずつあり、刺激を受けると青白く発光して外敵を威嚇します。この発光は、外敵からの防御、仲間とのコミュニケーション、餌を引き寄せるためなど、複数の目的があると考えられています。
興味深いのは、体表の腹側(海底側)にある細かい発光器の役割です。これは「カウンターイルミネーション」と呼ばれる効果を生み出し、海底から見上げた外敵に対して、海面からの光に溶け込んで姿を消すという巧妙な防御機能を果たしているんですね。
寿命は約1年と短く、雄は交接を済ませると雌よりも早く死んでしまいます。雌は1回の産卵で数千個から1万個もの卵を産み、約2週間で孵化します。この短い生涯の中で、ホタルイカは深海と浅瀬を行き来し、次世代へと命をつなぐのです。
渡瀬博士が名付けた「海のホタル」
ホタルイカという名前が付けられたのは、明治38年(1905年)のこと。それまでは富山の方言で「マツイカ」と呼ばれることが多く、これは松の肥料として利用されることが多かったことに由来します。また「コイカ」という呼び名も一般的でした。
この小さなイカに「ホタルイカ」という美しい名前を与えたのは、東京大学教授であり生物学者の渡瀬庄三郎博士です。渡瀬博士はホタルの研究をしていた際、富山県に光るイカがいるという情報を得て調査を開始しました。そして、ホタルのように美しく光る姿に感銘を受け、「ホタルイカ」と命名したのです。
この命名は単なる偶然ではなく、科学的な敬意の証でもあります。ホタルイカの学名「Watasenia scintillans(ワタセニア・シンティランス)」の属名Wataseniaは、1913年に石川千代松によって渡瀬博士の名前にちなんで付けられました。つまり、ホタルイカという生物そのものが、渡瀬博士の功績を永遠に刻んでいるわけです。
冷蔵・運送技術が近代化される前は、地元での食用以外は流通前に肥料として多く利用されていました。米国の『ウェブスター辞典』にも、ホタルイカは「日本の西海岸で大量に捕獲され、肥料として使用される」と記載されているほどです。しかし現代では、その美味しさと栄養価が広く認識され、春の風物詩として、また高級食材として珍重されるようになりました。
ちなみに、俳句の世界では「ほたるいか」は「晩春」を表す季語の一つとして定着しています。春の夜の海を彩る幻想的な光景は、日本の文化にも深く根付いているんですね。
富山湾の奇跡と特別天然記念物
ホタルイカは日本近海では北海道から日本海全域、太平洋側では土佐湾を南限に分布しています。世界には約40種類のホタルイカの仲間が生息していますが、数十万匹の大群で海岸近くまで押し寄せるのは富山湾独特の珍しい現象で、世界でも他に見られません。
富山湾でこのような現象が起こる理由は、湾の地形にあります。富山湾は「天然の生け簀」と呼ばれるほど豊かな漁場で、深海から浅瀬まで急激に変化する地形が特徴です。ホタルイカの雌は産卵のため深海200~600mの谷間から浮上して浅瀬に密集し、未明には沖へ帰っていきます。この回遊パターンが、富山湾特有の群遊現象を生み出しているのです。
この貴重な自然現象を保護するため、富山県の一部の海域が、1922年(大正11年)に国の天然記念物に指定されました。そして1952年(昭和27年)3月29日には「ホタルイカ群遊海面」の名称で特別天然記念物に格上げされています。
興味深いのは、指定対象が「ホタルイカ」そのものではなく「群遊海面」である点です。これは、ホタルイカ自体を天然記念物に指定すると食用利用ができなくなるため、生息海面を保護する形を取ったという、実に日本的な知恵と言えるでしょう。
4~5月の富山湾沿岸では、「ホタルイカの身投げ」と呼ばれる光景が出現することもあります。大量のホタルイカが波によって浜に打ち寄せられる現象で、風がなく比較的暖かい、新月前後の夜中から夜明け前の暗がりの中で見られます。発光しながら砂浜に打ち上げられる様子は、「海の銀河」とも例えられる幻想的な光景です。
富山湾でのホタルイカ定置網漁の様子は観光船から観察でき、毎年多くの国内外の観光客が訪れます。富山県滑川市には「ほたるいかミュージアム」もあり、ホタルイカの生態を学ぶことができます。
富山と兵庫、二大産地の違い
ホタルイカの主要産地は富山県と兵庫県です。意外に思われるかもしれませんが、漁獲量では兵庫県の浜坂漁港が日本一で、2017年のデータでは2,734トンと、富山県全体の1,299トンを大きく上回っています。兵庫県浜坂漁港では毎春「浜坂みなとほたるいか祭り」も開催され、地域の重要な水産資源となっています。
しかし、富山湾で獲れるホタルイカには独特の特徴があります。富山湾で獲れるものはほとんどがメスであるため、サイズが他の漁場で獲れるものより大きいのです。また、富山湾以外の漁場では底引き網漁による漁獲が多く、漁獲しても港に到着する頃には傷ついたり死んでしまったりするため、鮮度や品質が落ちてしまいます。
一方、富山湾では定置網漁が主流で、生きたまま水揚げされることが多いため、鮮度が抜群に良いのが特徴です。この鮮度の違いが、味わいにも大きく影響します。富山湾産のホタルイカは身がぷりっとしており、甘みと旨味が濃厚。生での提供も可能なほど新鮮なものが手に入ります。
産地による違いは、流通形態にも表れています。富山県では生や茹でたての状態で販売されることが多く、地元では酢味噌和えや沖漬けといった伝統的な食べ方が主流です。一方、兵庫県産は冷凍や加工品として全国に流通することが多く、パスタやアヒージョなど洋風料理にも広く使われています。
どちらが優れているというわけではなく、それぞれに魅力があります。富山湾産は鮮度と大きさ、兵庫県産は安定した供給量と加工適性。用途や好みに応じて選ぶのが良いでしょう。
春の食卓を彩る多彩な味わい
ホタルイカは食材としても非常に魅力的です。旬は3月から5月にかけての春で、この時期のホタルイカは身が詰まり、濃厚な旨味を楽しめます。
最も伝統的な食べ方は酢味噌和えです。茹でたホタルイカに酢味噌を和えるだけのシンプルな料理ですが、ホタルイカの甘みと酢味噌の酸味が絶妙にマッチします。目や口、軟骨を丁寧に取り除いてから調理するのが一般的で、この下処理が食感を格段に良くします。
沖漬けも富山県の名物料理です。生のホタルイカを醤油ベースのタレに漬け込んだもので、濃厚な旨味とねっとりとした食感が特徴。ご飯のお供や酒の肴として絶品です。ただし、生食には寄生虫(旋尾線虫)のリスクがあるため、厚生省の通知に基づき、マイナス30度以下で4日間以上冷凍するか、中心温度が60度以上で30秒以上加熱する必要があります。
現代では、パスタやアヒージョといった洋風料理にも広く使われています。ホタルイカのパスタは、ニンニクとオリーブオイルでホタルイカを炒め、パスタと絡めるだけで本格的な味わいに。アヒージョは、オリーブオイルとニンニクでじっくり煮込むことで、ホタルイカの旨味がオイルに溶け出し、バゲットに付けて食べると絶品です。
炊き込みご飯や天ぷら、素干しなど、調理法は実に多彩。ボイル済みのホタルイカは下処理が不要で、そのまま様々な料理に使えるため、家庭料理にも取り入れやすい食材です。
保存と下処理のポイント
ホタルイカを美味しく食べるには、適切な保存と下処理が重要です。
生のホタルイカは非常に傷みやすいため、購入したらすぐに調理するか、冷凍保存するのが基本です。冷凍する場合は、ジップロックなどの密閉袋に入れて空気を抜き、急速冷凍すると鮮度を保ちやすくなります。解凍は冷蔵庫でゆっくり行うのがベストです。
新鮮なホタルイカの選び方は、目が澄んでいて、身に張りがあり、変色していないものを選ぶこと。触ってみて弾力があり、異臭がしないものが新鮮です。
下処理については、目、口(くちばし)、軟骨を取り除くのが一般的です。目は指で押し出すように取り、口は胴体を軽く押して飛び出させてから取り除きます。軟骨は胴体の中にある透明な棒状のもので、指で引き抜くか、胴体を開いて取り出します。この下処理をすることで、食感が格段に良くなり、口当たりも滑らかになります。
まとめ
ホタルイカは、明治時代に渡瀬庄三郎博士によって命名された、日本を代表する春の食材です。富山湾の群遊海面は国の特別天然記念物に指定され、その幻想的な発光現象は「海の銀河」とも称される世界的にも珍しい自然の奇跡です。
深海200~700mに生息し、春の産卵期に浅瀬へと浮上するホタルイカ。全身に700~1,000個もの発光器を持ち、青と緑の光を放つその姿は、外敵からの防御やコミュニケーションなど、複数の目的を持った巧妙な生存戦略の表れです。
産地としては富山県と兵庫県が有名で、富山湾産は鮮度と大きさ、兵庫県産は安定した供給量が特徴。酢味噌和えや沖漬けといった伝統的な食べ方から、パスタやアヒージョなど現代的なアレンジまで、多彩な調理法で楽しめます。
旬の時期は3月から5月。この季節になったら、ぜひホタルイカを味わってみてください。その濃厚な旨味と、春の海の恵みを存分に感じられるはずです。そして機会があれば、富山湾の幻想的な光景も、ぜひ一度ご自身の目で確かめていただきたいですね。