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沼に浮かぶエメラルドグリーンの宝石
静かな沼の水面を覗き込むと、楕円形の葉が緑一色に覆い尽くしています。その葉の下、水中で育つ新芽こそが「じゅんさい」です。茎から出てくる新芽は透明なジュレで覆われており、この瑞々しい物体が食用として摘み取られます。
口に含むと、ぬるりとした感触が舌の上を滑っていく。噛むというより、すっと飲み込む感覚に近いかもしれません。この独特な食感の正体は、実にその90%以上が水でできているからです。清らかで豊かな水でしか育たないというじゅんさい。秋田県三種町森岳地区にはおよそ200を数える沼が点在し、世界遺産白神山系から流れ込む水がこの食材を育んでいます。
本記事では、沼が生み出すこの不思議な食材の魅力に迫ります。
じゅんさいとは何か?その正体に迫る
沼の水面を覆う緑の葉。その下で、ある「宝物」が静かに育っています。
じゅんさいとは、沼に生息する水草の一種です。沼の底に根を張り、水中で茎を伸ばし、水面には楕円形の葉を浮かべます。私たちが「じゅんさい」として食べているのは、茎から出てくる新芽。透明なジュレに覆われた、あのツルツルとした物体の正体です。
実にその90%以上が水分でできています。清らかで豊かな水でしか育たないという特性があり、産地として知られる秋田県三種町森岳地区には、およそ200もの沼が点在しているそうです。
ゼリー状の膜に包まれた姿を見ると、何か特別な加工をしているのかと思われるかもしれません。ところが、これは植物が自然につくるもの。茎から出た新芽が、透明な寒天質で覆われるのです。一口食べれば、その瑞々しさと独特な食感に、水辺の風景が浮かんでくるかもしれませんね。
古事記と万葉集に詠われた水草
日本最古の歴史書『古事記』や『日本書紀』、そして『万葉集』にその名が記されている食材を、皆さんはご存知でしょうか。「ぬなは(奴奈波、沼縄、蓴)」という古い呼称で登場するのが、じゅんさいです。沼に生育し、縄のように長い茎を持つことからこの名で呼ばれていたとされます。
『万葉集』には、次のような歌が残っています。
我情 由多爾多由多爾 浮きぬなは 辺にも奥にも 寄りかつましじ
(わがこころ ゆたにたゆたに うきぬなは へにもおくにも よりかつましじ)
「わたしの心はゆらゆらと漂うじゅんさいであり、近寄ることも遠のくこともできない」という恋歌です。当時の人々にとって、水面に浮かぶこの水草が、揺れ動く心の象徴として親しまれていたことが伺えます。長屋王家の木簡や正倉院文書にも記述が見られ、奈良時代にはすでに身近な存在だったのでしょう。
京都の深泥池(みどろいけ)は、古くからじゅんさいの産地として知られていました。都の人々がこの水草を口にしていたと想像すると、歴史の重みを感じずにはいられません。1300年以上もの間、日本人の食卓と心に寄り添い続けてきた食材なのです。
秋田県三種町:日本一の産地が生まれた理由
京料理の夏の風物詩として親しまれてきたじゅんさい。古くは京都が産地として知られていましたが、現代の生産状況を辿ると、意外な地域が日本一の座を握っていることが見えてきます。秋田県三種町です。現在、国内で収穫されるじゅんさいの9割以上がこの三種町産なのです。
なぜ、ここまでのシェアを築くことができたのでしょうか。その鍵は、三種町森岳地区に広がる独特の水環境にあります。およそ200もの沼が点在するこの地域では、世界遺産白神山系「素波里」や出羽山系「房住山」から流れ込む清らかな水と、湧き出る地下水が豊富に蓄えられています。じゅんさいは清らかで豊かな水でしか育たない、実にその90%以上が水分でできた繊細な水草なのです。
地元の記録によれば、もともと森岳地区の角助沼、惣三郎沼に自生していたじゅんさいを、誰かが小舟を浮かべて収穫したのが始まりだったとか。自然の恵みを摘み取るという行為が、やがて産地としての基盤を形成していったのでしょう。
小舟で摘む初夏の風物詩
5月から8月にかけて、名産地の沼には緑色の葉がじゅうたんのように広がります。ただし、収穫の開始時期は地域やその年の気候によって変動し、暖かい年は5月上旬から、寒い年は5月中旬からとなることもあります。風に揺れる葉の音や鳥のさえずりが響く中、小舟が何隻も水面に浮かぶ光景は、この季節ならではの風物詩です。
小舟の後方には石やブロックが置かれ、微妙なバランスを保っています。摘み取り作業は長時間に及ぶため、ひざと小船の縁にはクッションを当てるなど、現場ならではの工夫が随所に見られます。水面の葉をかき分け、水中にある新芽を丁寧に摘み取る。沼に浮かぶ小舟の上で、摘み手たちが静かに作業を続ける姿は、日本の初夏の風景として深く心に刻まれます。
京料理に愛される夏の味わい
酢の物やお吸い物など、日本料理には欠かせない一品として親しまれています。中でも京料理には夏の風物詩として必ず登場する存在で、暑い季節の食卓に涼しげな彩りを添えてくれるのですね。
口に含むと、ゼリー状の膜がツルツルと喉を滑り抜けていく。この独特な食感こそが、じゅんさい最大の魅力と言えるでしょう。酸味の効いた酢の物であれば、暑さで疲れた食欲を刺激し、お吸い物に浮かべれば、出汁の旨みを滑らかに運んでくれます。
清らかな水が育む、小さな奇跡
沼に浮かぶ小さな葉の裏側に、透き通ったゼリー状の物質がまとわりついている。これを指先で優しく摘み上げる作業は、じゅんさい収穫の現場で今も変わらず続けられています。秋田県三種町森岳地区にはおよそ200もの沼が点在し、世界遺産白神山系から流れ込む清らかな水が、この繊細な食材を育んでいます。
『古事記』や『日本書紀』に「ぬなは」の名で記され、『万葉集』では揺れ動く心に例えられてきた。一口の葉に、これほど長い時間が凝縮されていると思うと、味わいがより深く感じられます。現在、日本国内の生産は秋田県、青森県、山形県の3県で99%を担っており、そのうち秋田県三種町だけで国内収穫量の9割以上を占めています。一方で、市場に出回る多くは中国産という現実もあります。それでも、清らかな水でしか育たないこの食材を口にするとき、私たちは自然環境への敬意を忘れてはならないのかもしれません。