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1万年前の日本で、すでに搾られていた油の存在
1万年という時間、想像できますでしょうか。その遥か昔、日本のどこかで、誰かが植物の種を押し潰し、琥珀色の雫を搾り取っていた。
縄文時代の遺跡から、えごまの栽培痕跡が見つかっています。かつて「油」と言えば、それはえごま油を指すほど身近な存在でした。
この油が、どのように日本人の食卓を支えてきたのか。歴史を辿ると、そこには私たちが忘れてきた食の記憶が見えてきます。
えごま油とは何か——その正体と特徴
えごま油は、シソ科植物の「えごま」種子を搾って得られる油です。名前が似ていることからごま油と混同されがちですが、原料も性質も異なります。ごま油がゴマの種子を原料とするのに対し、えごま油はまったく別の植物から作られるのです。
製造方法には、低温で圧搾するコールドプレス製法が主流です。熱をかけすぎないことで、えごま油特有の栄養成分を損なわずに抽出できます。
瓶を開けて鼻を近づけると、ふわりと青臭い、それでいてナッツのような香りが立ち上ります。スプーンに少しとって口に含んでみると、舌の上でさらりと広がる軽やかな質感。ごま油のような濃厚なコクや香ばしさとは異なり、くせのない味わいが特徴です。炒め物の仕上げにひと回しすれば、料理の味を引き立てつつ、繊細な風味が加わる。そんな使い方ができる油なのです。
縄文時代から続く、日本人とえごまの長い歴史
えごまの原産地は、インド高地から中国雲南省の高地一带と推定されています。そこから日本へと伝わり、日本人の生活に根付いていったと考えられています。
日本では縄文時代の遺跡で栽培されていた痕跡が見つかっており、えごま油は日本最古の油脂植物として考えられています。
当時の人々にとって、えごまとはどのような存在だったのでしょう。縄文時代の森で採集された種子から油を搾る技術があったかは定かではありませんが、食用として、あるいは何らかの形で生活に役立てられていたことは間違いなさそうです。
油と言えばえごまだった時代——平安から戦国へ
平安時代初期、859〜877年頃。清和天皇の勅命により、九州にあった宇佐八幡宮が山城国(京都)の大山崎に遷宮されたという記録が残っています。この場所は嵯峨天皇の離宮があったことから離宮八幡宮とよばれるようになりました。
平安時代以降、えごま油は食用だけにとどまりませんでした。燈籠や提灯の燃料として夜を照らし、傘や雨合羽の防水加工に塗られ、建築や家具の塗装にも重宝されたのです。現代では食用油としてのイメージが強いですが、当時はむしろ実用品としての側面が大きかったのでしょう。かつては「油」と言えばえごま油を指すほど、人々にとって身近な存在でした。
ところで、戦国時代のある武将の名前をご存知でしょうか。美濃の蝮(まむし)と恐れられた斎藤道三。実は彼は若いころ、えごま油の行商人として財をなしたと伝えられています。天下を狙う武将と油売り——一見結びつかない組み合わせですが、当時の油商人がそれだけの財力や情報網を持っていたことを考えると、納得できる部分もあるのかもしれません。
食用から照明、防水、塗装へ。そして時には天下取りへの足掛かりに。えごま油は、日本人の暮らしの隅々にまで浸透していたのです。
ごま油とえごま油——名前は似ているが、その役割は違う
「ごま」と「えごま」。一字違いのこの二つ、名前の響きが似ているため同じようなものだと捉えていませんか。実際には原料から使い方まで、それぞれにまったく異なる個性があります。
ごま油は文字通りゴマの種子を原料とし、アジア料理には欠かせない存在です。日本では奈良時代から焙煎ごま油が食用とされ、明治時代になるまで揚げ油の中心だったという歴史があります。焙煎油は茶褐色を呈し、特有の香ばしさを放ちます。炒め物やラーメンの仕上げにひと回しすれば、深いコクと風味が立ち上がる。加熱調理に耐える強さを持っているのです。
一方、えごま油はエゴマの種子から搾ります。オメガ3(α-リノレン酸)を豊富に含むのが特徴で、前述のコールドプレス製法で丁寧に抽出されます。えごま油は、かけて・つけて・まぜて使うのがおすすめです。サラダや冷奴など冷たい料理はもちろん、おみそ汁など温かい料理や飲み物にも加えられます。
加熱調理への適性については、見解が分かれています。熱をかけすぎないことを推奨する一方で、揚げものや炒めものに使用しても栄養価がほとんど変化しないという研究結果も報告されています。一般的な油と同様に酸化しやすい性質があるため、開封後は蓋をしっかりしめて冷暗所で保存し、早めに使い切るのが望ましいでしょう。
使い分けのポイントはシンプルです。香りを楽しむか、栄養を摂るか。目的に合わせて選んでみてください。
現代に息づく伝統製法——職人の手による搾油
全国各地で、えごま油の生産が続いています。無農薬栽培のえごまが、昔と変わらぬ手法で油へと生まれ変わっているのです。焙煎、圧煎、圧搾、そして濾過。機械に頼り切らないこの工程は、職人の目と手、そして経験に委ねられています。
搾油機からしたたり落ちる黄金色の液体。その一滴には、原料の良し悪しが如実に反映されるため、生産者たちは土作りからこだわりを貫いてきました。
現代では効率重視の化学抽出法が主流ですが、あえて時間をかける古式圧搾製法には、失われた何かを取り戻すような重みがあります。口にした瞬間、えごま本来の香りがふわりと広がる。それは単なる調理油を超えた、作り手の想いが詰まった一滴なのかもしれません。
一滴の油に詰まった、日本の長い時間
健康志向の昨今、えごま油という名前を耳にする機会が増えていますが、その歴史を辿ると、日本の食文化の深層にたどり着きます。縄文時代から人々の暮らしを支えてきたという事実。長い時を経て、今また食卓に戻ってきたこの油を前にすると、単なる調味料という枠を超えた重みを感じます。
一瓶のガラス越しに、日本の長い時間が見える。歴史を知った後で味わう一滴は、確かに深みが違って感じられるのです。