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名古屋コーチンの起源と歴史:日本三大地鶏の真実

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名古屋コーチンとは何か:その名が語る以上の物語

名古屋コーチンは、明治時代に愛知県で作出された鶏です。中国から入手したバフコーチンと尾張地方の地鶏を交配して生まれたとされ、1905年(明治38年)3月10日には日本家禽協会によって国産実用品種第一号として認定されました。発祥地は名古屋市ではなく、現在の小牧市池之内にあたります。名は、明治30年頃に「名古屋地方から来た鶏」として定着した経緯を持っています。

この鶏は、肉質の良さと産卵能力を併せ持ち、強健で温厚な気質でも知られてきました。名が示すのは地名だけではありません。人が手をかけ、土地が育て、食卓が受け止めてきた時間の厚みが、その呼び名には折り込まれています。

その厚みを一枚ずつめくっていくと、資料ごとに記述が食い違う点にも出会います。誕生の舞台、卵と肉という二つの顔、地域に根づいた食べ方、そして絶滅の淵からの復活。順に辿ることで、一羽の鶏が日本の食卓に残した足跡が見えてくるはずです。

尾張藩士が生んだ奇跡:名古屋コーチン誕生の舞台

「名古屋」の名を冠しながら、その産声は名古屋市ではなく小牧市で上がりました。秋田の比内地鶏、鹿児島の薩摩地鶏と並んで日本三大地鶏に数えられる名古屋コーチン。発祥の地とされるのは、旧・東春日井郡池林村池之内、現在の愛知県小牧市池之内です。名古屋という地名との距離に戸惑う向きもあるかもしれませんが、その始まりは明治15年(1882年)ころに求められます。

当時、尾張藩に仕えていた海部壮平・正秀の兄弟が養鶏に打ち込みました。武士が鶏を飼う。明治を迎えた時代の空気のなかで、それは珍しい眺めだったはずです。兄弟は小牧市池之内の地で交配を重ね、新しい鶏を世に送り出しました。発祥の地として伝わる池之内という土地の名が、その出発点を今に伝えています。

ここで、資料を読み比べると気になる点が浮かびます。交配相手となった地鶏の素性です。尾張地方に古くからいた在来種を母体としたという見方が複数の資料で示される一方、岐阜方面の地鶏に由来するという見方も一部にあります。ただ、いずれの説に立っても、尾張と美濃を含むこの一帯に多様な地鶏が息づいていたことは共通して見えてきます。

明治15年という年号は、そうした交配の試みが始まった時期を示すものとして語られます。武士の身分を離れた者が、藩の外で新たな生業を切り開く。名古屋コーチンの誕生は養鶏史の一コマであると同時に、明治という時代の移り変わりを映す場面でもあるのです。

愛知県が担った育種改良と国産実用品種第一号の座

「1905年(明治38年)3月10日」——名古屋コーチンの歩みを語るうえで、この日付は欠かせません。国産実用品種の第一号として公認されたのが、この日だからです。近代養鶏史の幕開けを告げる認定であり、地域の鶏が国の記録に正式な位置を与えられた瞬間でもありました。

公認の土台には、愛知県を舞台に進められた育種改良があります。旧尾張藩士の海部壮平・正秀兄弟が、中国から入手したバフコーチンと尾張地方の地鶏をもとに作り上げた鶏を起点に、改良が重ねられていきました。品種としての正式名称は「名古屋種」。親しまれてきた呼び名と品種名が少しずれるところに、地域の歴史がにじみます。

確かなのは、1905年という年を境に、名古屋コーチンが日本の養鶏史に正式な座を得たという点です。それ以前から続いた改良の積み重ねが、この年に一つの形として結実しました。明治時代から昭和30年代まで、この鶏が養鶏産業の発展とともに歩んでいく——その出発点がここにあります。

肉と卵の二つの顔:ブロイラーの2〜3倍の飼育期間が生む味わい

雛が鶏舎に運ばれてくる。そこから出荷までの日数を数えると、この鶏の性格がおのずと見えてきます。一般的なブロイラーは短期間で市場へ送り出されますが、名古屋コーチンはその2倍から3倍の時間をかけて育つ。急がずに太らせる。その設計は、肉の質感と卵の色の両方に表れてきます。

出荷の日齢には幅があります。名古屋コーチン協会やさんわコーポレーション、鶏三和はいずれも120〜150日と記しており、120〜130日とする資料も一部にあります。数字の幅はあるものの、ブロイラーより長く生かされるという点では、どの記述も同じ方向を指しています。

長い時間を過ごした鶏の肉は、噛んだ瞬間に繊維が抵抗を返します。噛みしめるほどに脂がにじみ、うま味が遅れて追いかけてくる。あぐりっと!なごやは、ブロイラーの2倍から3倍の期間をかけてじっくり育てた肉の特徴として、歯ごたえがあり、とてもコクがあり、ジューシーだと述べています。飼育期間の長さが筋肉の締まりと脂の乗り方に反映された結果だと捉えると、腑に落ちます。温度が下がれば繊維の輪郭はより際立ち、温め直せば脂がほどけて香りが戻ってくる。同じ部位でも、置かれた温度で表情が変わる肉だと言えます。

卵の側にも、はっきりした個性があります。卵殻は桜色で、この色は名古屋コーチンの特徴として示されています。年間の産卵数については、名古屋コーチン協会が約250個とする一方、さんわコーポレーションは200〜230個としており、数字の揺らぎが残っています。肉と同じく、ここにも資料による幅があるわけです。

長い飼育期間が肉に歯ごたえとコクを与え、桜色の卵殻が卵の側の目印になる。二つの顔は、別々の偶然ではなく、同じ育て方から生まれたものとして並んでいます。

100年フードが照らす食文化:いわくらTKGと地域の食卓

令和4年度、文化庁の「100年フード」に、いわくらTKGをはじめとする名古屋コーチンの食文化が認定されました。この知らせは、いわくらTKGプロジェクトのウェブサイトでも公開されています。

百年という区切りは、長いようでいて、案外そっと訪れます。ある世代が当たり前に口にしていたものが、次の世代の食卓にも同じ形で残っている。その連続に光が当たった、という見方もできるでしょう。

名古屋コーチンの食文化が選ばれたのは、食材そのものの価値だけでなく、地域がそれをどう食べてきたかという文脈があってのことです。いわくらTKGという名も、その文脈の一部として挙げられています。100年フードという言葉自体、特別な日のごちそうよりも、日々の食卓に根づいた営みを想定した呼び名なのかもしれません。

食卓は、静かな場所です。誰かが声高に語るわけでもなく、同じ手順が繰り返される。その反復が、結果として百年という時間を作ってきたのでしょう。認定は終点ではなく、次の世代へ渡すための合図でもあります。

絶滅の危機から復活へ:昭和37年以降の名古屋コーチン

昭和30年代まで、名古屋コーチンは養鶏産業の成長と足並みをそろえて歩んできました。その歩みが崩れ始めるのは、昭和37年以降に種鶏の輸入が自由化された頃です。効率を重視した安価な外国鶏が市場へ流れ込むと、手間のかかる在来種は飼育の場を失っていきました。激減。そして種の絶滅という、かつてない危機が現実味を帯びます。長い年月をかけて受け継がれてきた血統が、わずかな期間で細りかけたわけです。

そこへ、地鶏肉の生産という新しい展開が訪れます。昭和40年代後半には昔ながらの「かしわ肉」の味を求める声が高まり、愛知県が産肉性に向けた改良に着手し、昭和59年に肉用名古屋コーチンの供給が始まりました。絶滅の淵から再び活躍の場を取り戻すまでには、十数年におよぶ歳月がかかっています。名古屋コーチンの生い立ちを紹介する資料にも、昭和37年以降の激減と、地鶏肉生産による再起が記されています。

呼び名が定着した時期にも幅があります。明治23年頃に尾張藩出身者が京都・大阪で「薄毛」を広め、明治30年頃までには「名古屋コーチン」と呼ばれて定着したとする見方があり、資料によって数年単位のずれが生じています。名が固まる前、この鶏がどう呼ばれていたのかを示す記録は、いまも一枚岩ではありません。

食卓の向こうに見える尾張の記憶

小牧市は名古屋コーチン発祥の地とされ、小牧駅前には名古屋コーチンのモニュメントが設置されています。秋田の比内地鶏、鹿児島の薩摩地鶏と並ぶ日本三大地鶏の一つとされる名古屋コーチンですが、その歩みについては資料によって書き方に幅があります。

作出の時期は明治15年(1882年)頃とする記述がある一方、明治時代初期とする記述もあり、名が定着した時期も明治30年頃とするものと1897年頃とするものがあります。ひとつの年号に収まらないのです。

それでも、尾張の食卓で受け継がれてきたという点は、どの記述にも共通しています。揺らぎを抱えたまま語り継がれる。それが生きた食文化の姿なのでしょう。

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