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はじめに
石川県金沢市を代表する郷土料理「治部煮(じぶに)」。鴨肉や鶏肉に小麦粉をまぶし、金沢特産のすだれ麩や季節の野菜とともに煮込んだこの料理は、江戸時代から続く加賀料理の真髄を今に伝えています。とろみのある煮汁と、わさびの爽やかな辛味が特徴的なこの一品は、武家料理として生まれながら、庶民にまで広く親しまれてきました。
この記事では、治部煮の歴史的背景、名前の由来にまつわる諸説、そして料理としての特徴や調理法について、詳しく解説していきます。
金沢が育んだ加賀料理の代表格
治部煮は、石川県金沢市を代表する郷土料理であり、加賀料理の中でも特に知名度の高い一品です。加賀料理とは、加賀藩(現在の石川県)で発展した料理文化の総称で、豊かな海の幸と山の幸、そして京都から伝わった洗練された調理技術が融合して生まれました。
治部煮の最大の特徴は、肉に小麦粉をまぶして煮込むという調理法にあります。この小麦粉が肉の旨味を閉じ込めると同時に、煮汁にとろみをつける役割を果たすのです。一般的な煮物とは異なるこの独特な食感が、治部煮を特別な存在にしています。
使用される具材も特徴的で、鴨肉または鶏肉を主役に、金沢特産のすだれ麩、百合根、椎茸、そして季節の野菜が彩りを添えます。だし汁に醤油、みりん、砂糖、酒を合わせた煮汁で煮込み、仕上げにわさびを添えるのが伝統的なスタイルです。このわさびの爽やかな辛味が、とろみのある煮汁と絶妙なコントラストを生み出します。
四季折々の食材を用いることで、年間を通じて楽しめる料理でもあります。春には筍や菜の花、夏には茄子やオクラ、秋には里芋や銀杏、冬にはほうれん草やせりなど、季節ごとに異なる表情を見せてくれるのです。
諸説入り乱れる名前の由来と起源
「治部煮」という独特な名前の由来については、実に多くの説が存在します。これらの諸説が語り継がれていること自体が、この料理の歴史の深さを物語っているとも言えるでしょう。
最も有力とされる説の一つが、豊臣秀吉の兵糧奉行として従事した岡部治部右衛門が朝鮮から伝えたという説です。この武将の名前から「治部」という名がついたとされています。
もう一つの興味深い説は、キリシタン大名として知られる高山右近が関係しているというものです。1588年(天正16年)に加賀にお預けとなった高山右近が、宣教師から教わった欧風料理を伝えたのが起源だとする説で、治部煮が実は西洋料理の影響を受けているという可能性を示唆しています。
さらに、調理の際に材料を「じぶじぶ」と煎りつけるようにして作ることから名付けられたという説もあります。ただし、この説の根拠とされる17世紀の料理本『料理物語』では、実際には「しふしふ」と記載されているため、音の変化があったのかもしれません。
また、中国語の「熟鳧(じゅくぶ)」が転じたという説も存在します。中国語で「熟」は「煮たもの」、「鳧」は「鴨」を意味し、つまり「鴨の煮込み」という意味になります。これが「じゅぶ」となり、さらに「じぶ」へと変化したというわけです。
どの説が正しいのか、今となっては確かめようがありません。しかし、これだけ多くの由来説が存在すること自体が、治部煮という料理が長い歴史の中で多くの人々に愛され、語り継がれてきた証なのではないでしょうか。
江戸時代から続く武家料理の系譜
治部煮の歴史は、少なくとも江戸時代まで遡ることができます。加賀藩の前田家に代々仕えた料理人が18世紀前期に著した『料理の栞』には、現在の治部煮に似た料理の記述が見られます。
興味深いのは、同じ「じぶ」という名称であっても、時代によって調理方法に変遷があったという点です。『料理の栞』には「麦鳥(むぎどり)」と呼ばれる料理が記録されており、これは「雁・鴨・白鳥などの肉をそぎ切りにし、麦の粉を付けて濃い醤油味の汁で煮、ワサビを添える」というもので、現在の治部煮に非常に近い調理法です。
一方、同じ書物には「鴨肉を鍋に張った汁を付けながら鍋肌で焼き、汁を張った椀に盛ってワサビを添えて出す」という、カモの鍋焼きとしての「じぶ」または「じゅぶ」という別の料理も記載されていました。
これら二種類の料理が時代とともに混同され、19世紀前期までには従来の「麦鳥」のような煮込み料理が「じゅぶ(熟鳧)」と呼ばれるようになり、現在の「治部煮」へとつながっていったのです。
武家料理として生まれた治部煮は、やがて庶民の間にも広まり、金沢の食文化に深く根付いていきました。第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)には、昭和天皇が福井県芦原温泉に宿泊された際、夕食に「雛鳥の治部煮仕立」が供されたという記録も残っています。これは、治部煮が北陸を代表する郷土料理として広く認識されていたことを示す証左と言えるでしょう。
小麦粉がもたらす独特のとろみと旨味
治部煮の最大の特徴は、何と言っても肉に小麦粉をまぶして煮込むという調理法にあります。この一手間が、治部煮を他の煮物とは一線を画す存在にしているのです。
小麦粉をまぶすことで得られる効果は二つあります。一つは、肉の表面に薄い膜を作ることで、肉汁や旨味を内側に閉じ込めること。もう一つは、煮込む過程で小麦粉が煮汁に溶け出し、自然なとろみをつけることです。このとろみが具材に絡みつき、口の中で一体となった味わいを生み出します。
使用される肉は、伝統的には鴨肉です。かつてはツグミなどの野鳥を用いるとされ、その際は丸ごとすり潰してひき肉状にし、つくねのように固めたものを煮立てたと言われています。現代では鴨肉や鶏肉が一般的で、そぎ切りにして使用します。
金沢特産のすだれ麩も、治部煮には欠かせない食材です。すだれ麩は、生麩の一種で、すだれ状の模様が特徴的な麩です。もちもちとした独特の食感が、とろみのある煮汁とよく合います。
百合根、椎茸、そして季節の青菜(せりやほうれん草など)も定番の具材です。百合根のほくほくとした食感、椎茸の香り、青菜のシャキッとした歯ごたえが、それぞれ異なる食感のアクセントを加えます。
だし汁に醤油、砂糖、みりん、酒を合わせた煮汁は、甘辛い味付けが基本です。そして仕上げに添えられるわさびが、この料理の味わいを引き締めます。とろみのある煮汁とわさびの組み合わせは、一見意外に思えるかもしれませんが、実際に食べてみるとその相性の良さに驚かされます。わさびの爽やかな辛味が、濃厚な煮汁の味わいをすっきりとさせ、最後まで飽きることなく食べ進められるのです。
金沢ならではの食材と調理の工夫
治部煮を語る上で欠かせないのが、金沢ならではの食材の存在です。特にすだれ麩は、金沢の食文化を象徴する食材の一つと言えるでしょう。
すだれ麩は、小麦粉のグルテンを主原料とする生麩の一種で、すだれ状の模様が美しい見た目も特徴です。金沢では古くから麩の生産が盛んで、様々な種類の麩が作られてきました。すだれ麩は煮崩れしにくく、もちもちとした食感が長時間保たれるため、煮物に最適な食材なのです。
百合根も、治部煮に欠かせない食材です。石川県は百合根の産地としても知られており、ほくほくとした食感と上品な甘みが特徴です。煮物にすると、その甘みがさらに引き立ちます。
調理の工夫としては、肉のそぎ切りの技術も重要です。そぎ切りとは、包丁を斜めに寝かせて薄く切る技法で、肉の繊維を断ち切ることで柔らかく仕上がります。この薄切りの肉に小麦粉をまぶすことで、短時間の加熱でも火が通り、柔らかさを保つことができるのです。
煮込む際は、「さっと煮る」のがポイントです。長時間煮込むと肉が硬くなってしまうため、小麦粉の効果で旨味を閉じ込めつつ、短時間で仕上げます。この「じぶじぶ」という音を立てながら煮る様子が、料理名の由来の一つとされているのも納得できますね。
伝統を守りながら進化する現代の治部煮
治部煮は伝統的な郷土料理でありながら、現代においても様々な形で進化を続けています。金沢の料亭では、伝統的な調理法を守りつつ、季節ごとに異なる食材を取り入れた治部煮が提供されています。
家庭料理としても、治部煮は金沢の食卓に欠かせない存在です。鴨肉が手に入りにくい場合は鶏肉で代用し、すだれ麩の代わりに一般的な麩を使うなど、各家庭で工夫を凝らしながら作られています。
近年では、治部煮をアレンジした創作料理も登場しています。例えば、治部煮の煮汁をソースとして活用したり、治部煮の具材を使った炊き込みご飯など、伝統の味を現代風にアレンジした料理が生まれています。
また、金沢を訪れる観光客にとって、治部煮は必ず味わいたい郷土料理の一つとなっています。駅弁や土産物としても販売されており、金沢の食文化を全国に発信する役割も果たしているのです。
伝統を守りながらも、時代に合わせて柔軟に変化していく。それが治部煮という料理の魅力であり、長く愛され続けている理由なのかもしれません。あなたも金沢を訪れた際には、ぜひ本場の治部煮を味わってみてはいかがでしょうか。
まとめ
治部煮は、石川県金沢市を代表する郷土料理であり、江戸時代から続く加賀料理の伝統を今に伝える一品です。鴨肉や鶏肉に小麦粉をまぶして煮込むという独特の調理法により、肉の旨味を閉じ込めつつ、煮汁にとろみをつけるのが最大の特徴です。
名前の由来については、岡部治部右衛門説、高山右近説、調理音説、中国語由来説など、複数の説が存在し、どれが正しいのかは定かではありません。しかし、これだけ多くの由来説が語り継がれていること自体が、この料理の歴史の深さと人々の関心の高さを物語っています。
金沢特産のすだれ麩、百合根、椎茸、季節の野菜といった具材と、わさびを添えるという独特のスタイルは、加賀百万石の食文化を象徴するものです。武家料理として生まれながら、庶民にまで広く親しまれ、現代においても金沢の食卓に欠かせない存在となっています。
伝統を守りながらも、時代に合わせて進化を続ける治部煮。その味わいは、金沢という土地の歴史と文化、そして人々の食への情熱を感じさせてくれます。ぜひ一度、本場の治部煮を味わい、加賀料理の奥深さを体験してみてください。






















