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はじめに
今回は「ボルシチ」についてお話ししていきます。鮮やかな深紅色が目を引くこのスープは、ビーツを主役に、肉や野菜をたっぷりと煮込んだ具沢山の料理として知られています。
ロシア料理として紹介されることも多いボルシチですが、実はウクライナが発祥の地。数十種類ものバリエーションが存在し、それぞれの土地の食文化を映し出す鏡のような料理なのです。サワークリームを添えて食べるのが伝統的なスタイルで、その白と赤のコントラストは視覚的にも美しく、味わいにも深みを与えてくれます。
この記事では、ボルシチの起源から特徴、地域による違い、そして伝統的な調理法まで、この魅力的なスープの全貌をお伝えします。
鮮やかな深紅色が語る、ボルシチの本質
ボルシチとは、ビーツ(テーブルビート)を主材料とし、肉や野菜を煮込んだ具沢山のスープです。その最大の特徴は、何と言ってもビーツの色素がもたらす鮮やかな深紅色。この美しい色合いは、料理が食卓に運ばれた瞬間から人々の目を奪います。
基本的な材料は、ビーツ、肉(牛肉や豚肉が一般的)、キャベツ、ジャガイモ、ニンジン、タマネギなど。これらを丁寧に炒めてから、スープでじっくりと煮込んでいきます。ただし、スープの中身は決まっているわけではありません。ソーセージ、ハム、ベーコン、鶏肉、さらには魚のから揚げ、ズッキーニ、リンゴ、インゲンマメなど、地域や家庭によって実に多彩な材料が使われるのです。
味の特徴は、甘味と酸味の絶妙なバランスにあります。この独特の味わいは、伝統的には「ビートサワー」と呼ばれる発酵させたビーツの搾り汁によって生み出されます。現代では、酢やレモン汁、トマトなどで酸味を加えることも多いですね。仕上げには「スメタナ」と呼ばれるサワークリームを添え、ディルやパセリなどのハーブを散らすのが定番です。
通常は温製で供されますが、夏季には冷製で楽しむこともあります。具だくさんに作るのが一般的ですが、具をすべて漉して汁だけを供する食べ方も存在するのです。
ハナウドからビーツへ、名前に刻まれた変遷
ボルシチの起源を辿ると、その歴史は意外なほど古く、そして複雑です。「ボルシチ」という名前の語源については複数の説があり、定説は確立されていません。しかし、最も有力とされるのは、この料理がもともとハナウド(ポルシテヴィク)という多年生草を使ったスープだったという説です。
ハナウドはヨーロッパやアジアに広く分布する植物で、本来のボルシチはこの草で作ったスープを指していました。それが後世になって、ビーツを使ったスープを指すようになったと考えられています。実際、1808年に書かれたロシアの旅行記では「ボルシチという野菜を一緒に煮込むことから、その名がついている」という記述があり、19世紀のボルシチに必須な野菜はビーツではなくハナウドだった可能性が指摘されているのです。
別の興味深い説としては、「ボルシチ」が「紅いシチー(ブリ・シチー)」を意味する単語だというものがあります。シチーはキエフ大公国時代のキャベツスープでしたが、ボルシチはそこにビーツ(ブリャーク、意訳すると「紅大根」)が加えられたスープを意味していたというのです。
ビーツは温かい気候を好む植物であるため、当時の国の南方(現在のウクライナと南ベラルーシの地域)で栽培され、その地方で「ボルシチ」を食べる風習が広まりました。一方、北方(現在のロシアと北ベラルーシの地域)ではビーツの栽培が困難だったため、シチーを食べる習慣が定着したと言われています。
こうした歴史的背景から、ボルシチはウクライナ料理として認識されており、多くのロシア人も「ボルシチの本家本元はウクライナ」と認めています。2022年7月には、ユネスコがウクライナで伝統的に受け継がれている「ボルシチの料理文化」を「緊急保護が必要な無形文化遺産」に登録しました。これは、ロシアのウクライナ侵攻によりこの文化が脅かされているという危急性を考慮した決定でした。
甘味と酸味が織りなす、複雑な味の交響曲
ボルシチの味わいを一言で表現するなら、「甘味と酸味の調和」と言えるでしょう。この独特の味のバランスこそが、ボルシチを他のスープと一線を画す存在にしているのです。
伝統的な製法では、「ビートサワー」と呼ばれる発酵液が重要な役割を果たします。これはスライスしたビーツをぬるま湯で覆い、バクテリアによって糖の一部を発酵させて作られるもの。2〜5日間(古くなったライ麦パンを加えると発酵が早まります)発酵させると、深紅で甘酸っぱい液体が完成します。この液体が、ボルシチに独特の酸味と深みを与えるのです。
ただし、現代ではより手軽な方法も広く用いられています。新鮮なビーツの搾り汁に、酢、レモン汁、クエン酸、トマト、リンゴ、赤ワイン、ザワークラウトの搾り汁などを加えて酸味を調整する方法です。
味付けには、塩、黒胡椒、ニンニク、ローリエ、ディルが最も一般的に使われます。その他にも、オールスパイス、セロリの茎、パセリ、マジョラム、トウガラシ、サフラン、ホースラディッシュ、ショウガ、プルーンなど、実に多彩な香辛料やハーブが用いられることがあります。
濃度についても興味深い考え方があります。一般的な意見としては、「よいボルシチとはスプーンが直立するほど濃いもの」とされているのです。そのため、一部のレシピでは小麦粉やルーを加えてとろみをつけることもあります。
そして忘れてはならないのが、サワークリーム(スメタナ)の存在です。東ヨーロッパで使われるスメタナは、アメリカのサワークリームよりも柔らかく、ボルシチの酸味をまろやかに包み込んでくれます。この白いクリームが深紅のスープに溶け込む様子は、まさに視覚的な楽しみでもあるのです。
40種類以上の顔を持つ、地域ごとの個性
ボルシチの母国ウクライナでは、実質的に州ごとに独自のレシピが存在すると言われています。その数は40種類以上にも及び、使用するストックの種類、肉の種類、野菜の選択、切り方、調理法などによって、それぞれが異なる個性を持っているのです。
典型的なレシピでは牛肉と豚肉を使用しますが、キーウ(キエフ)では牛肉だけでなくマトンやラムも使用します。ポルタヴァ地方では、ニワトリ、アヒル、ガチョウといった家禽の肉を用いたストックが特徴的です。チェルニーヒウのボルシチは、ズッキーニ、豆、リンゴを使い、ビーツをラードではなく植物油でソテーし、酸味はトマトとリンゴのみから得るという独自のスタイルを持っています。
リヴィウのボルシチは骨のストックを基本とし、ウィンナーソーセージの塊とともに供されます。
ロシアでも様々な地域ごとのレシピが開発されています。モスクワのボルシチには牛肉、ハム、ウィンナーソーセージが添えられ、シベリアのボルシチにはミートボールが入ります。プスコフのボルシチには地元の湖産のヨーロッパワカサギの干物が入るという、実にユニークなバリエーションも存在するのです。
さらに興味深いのは、キリスト教修道院の四旬節のボルシチで、キャベツの代わりにマリネした昆布を使うという斬新なアレンジ。ロシア海軍のボルシチ(flotsky borshch)では、野菜を千切りではなく正方形やひし形に切るという、見た目にも特徴的なスタイルが採用されています。
アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアでは、ビーツを使わないこともあり、刻んだ赤唐辛子と新鮮なコリアンダーで味付けした辛いスープとして楽しまれています。ユダヤ系の家庭では、肉と乳製品を組み合わせないカーシェールの規則に従い、肉のスープ(fleischik)と乳製品のスープ(milchik)の2種類を作り分けているのです。
ビーツが主役、野菜と肉が織りなす豊かな味わい
ボルシチの材料を見ていくと、その豊かさに驚かされます。最も一般的に加えられる野菜は、ビーツ、キャベツ、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、トマトです。これらが基本となりますが、レシピによっては豆、リンゴ、カブ、ルタバガ、セルリアック、ズッキーニ、ピーマンなども使われます。
ビーツは色を保つために、酢やレモン果汁をかける前に部分的に焼いて、他の野菜とは別に蒸し煮にすることがあります。タマネギ、ニンジン、カブなどの野菜は、伝統的に動物性脂肪(特にラードやバター)でソテーし、トマトやトマトペーストと混ぜ合わせます。
肉については、牛肉、豚肉、またはその両方の組み合わせが最も一般的です。特にブリスケット、リブ、シャンク、チャックが風味豊かに仕上がると考えられています。ストックは肉、骨、またはその両方を茹でて作られ、肉のストックは通常約2時間、骨のストックは4〜6時間調理されます。
断食用のバリエーションでは魚介類の出汁が使われることもあり、純粋な菜食主義のレシピでは茸の出汁が使われます。このように、宗教的な背景や食の嗜好に応じて、柔軟にアレンジできるのもボルシチの魅力なのです。
ペチカが育んだ、伝統的な調理の知恵
ボルシチの伝統的な調理法は、ロシアの伝統的な石組みストーブ「ペチカ」を使った長時間調理に由来しています。この独特の調理法こそが、ボルシチを他のスープと区別する重要な要素なのです。
基本的な手順は、野菜を肉とは別にソテー、蒸し煮、茹で、または焼くことによって事前に調理しておき、その後ストックと組み合わせるというもの。これは、全ての素材が同時に調理完了するように、個々の材料の調理時間の違いを考慮した結果生まれた知恵です。
この調理法の重要性は、ロシア語の言葉にも反映されています。全ての野菜を生で直接ストックに加える料理は「ボルシチ」(borshch)ではなく、「ボルシチョク」(borshchok)と呼ばれるのです。つまり、本格的なボルシチとは、手間をかけて丁寧に作られるものだという認識が、言葉の中にも刻まれているわけですね。
具体的な調理の流れを見てみましょう。まず、肉や骨でストックを取ります。肉と骨は通常、ストックを取った後で鍋から出され、肉だけがボルシチが完成する10〜15分前にスープに戻されます。
野菜の準備も丁寧です。ビーツは色を保つために処理を施し、タマネギ、ニンジンなどはラードやバターでソテーします。乾燥豆は別に茹で、ジャガイモとキャベツを茹でてから、事前に調理済みの野菜を加えていくのです。
伝統的な製法では、ビートサワーを使うため、少なくとも数日前から計画を立てる必要がありました。現代では時短のために様々な工夫がなされていますが、それでも丁寧に層を重ねるように味を構築していく姿勢は変わりません。
仕上げには、塩、黒胡椒、ニンニク、ローリエ、ディルなどで味を調えます。そして最後に、サワークリームを添え、刻んだハーブを振りかければ完成です。ウクライナでは、ニンニクの風味豊かなロールパン「パンプーシュカ」を添えることが多く、ロシアではトヴァローク(東ヨーロッパのカッテージチーズ)をベースにした様々な副菜とともに供されます。
ボルシチは単品で食べられることは滅多になく、スライスしたパンや茹でたジャガイモなどの副菜と一緒に楽しむのが伝統的なスタイルなのです。
まとめ
ボルシチは、ウクライナ発祥の伝統的なビーツのスープであり、その鮮やかな深紅色と具沢山な味わいが最大の魅力です。
ハナウドのスープから始まり、ビーツを主役とする現在の形へと変遷してきたこの料理は、地域ごとに40種類以上ものバリエーションを持ち、それぞれの土地の食文化を映し出しています。甘味と酸味の絶妙なバランス、丁寧に層を重ねて作られる複雑な味わい、そしてサワークリームとの相性の良さ。これらすべてが、ボルシチを東欧料理の代表格たらしめているのです。
伝統的な調理法は手間がかかりますが、その分だけ深い味わいが生まれます。ペチカで長時間煮込まれた本格的なボルシチも、現代的にアレンジされた時短版も、それぞれに魅力があります。大切なのは、この料理が持つ文化的な背景と、人々の暮らしに根ざした温かさを理解することではないでしょうか。
ユネスコの無形文化遺産にも登録されたボルシチの料理文化は、単なる一品の料理を超えて、人々の歴史と記憶を繋ぐ存在です。あなたもぜひ、この真紅のスープを通じて、東欧の豊かな食文化に触れてみてください。























