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白身のトロと呼ばれる魚
鮮魚店や市場で一尾数千円から1万円を超えることも珍しくない魚がある。その値札を眺めて、どのような魚なのか想像したことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
「白身のトロ」——この魚がこう称される所以は、その身の脂の乗りにあります。正式名称を「アカムツ」といいますが、市場や料理店ではほとんど聞かれない名前です。名前の成り立ち、産地ごとの特色、そして何よりその味わいの深さ。これらを辿っていくと、一尾の魚が持つ物語が見えてきます。
のどぐろとアカムツ:二つの名前の由来
魚屋の店先やスーパーの鮮魚コーナーで「のどぐろ」と書かれた札を見かけることがありますね。この独特な名前は、口を開けたときに喉の奥が真っ黒に見えることに由来する通称です。一方で、正式名称(標準和名)は「アカムツ(赤鯥)」といいます。
アカムツという名前にも、ちゃんとした理由があります。「アカ」は文字通り赤色を指し、「ムツ」は脂っこいことを意味する「むつっこい」から来ているそうです。脂の乗った身の美味しさが、そのまま名前に刻まれているわけですね。
ところで、アカムツという名前から「ムツ科」を連想される方もいるかもしれません。ところが実際はホタルジャコ科に属しています。すり身や練り物の原料として知られるホタルジャコの仲間なのです。名前とは裏腹な分類に、分類学の面白さを感じずにはいられません。
名前の由来を知ったところで、次はこの魚がどのように全国へ広まったのかを見てみましょう。
2014年、錦織選手が変えた運命
のどぐろという呼び名が日本中に広まる前、この魚は北陸から山陰にかけての日本海側だけで親しまれる存在でした。産地では日常的に「のどぐろ」と呼ばれていたものの、他の地域では馴染みの薄い名前だったのです。
地元でひっそりと消費されていたこの魚が、運命の転機を迎えたのは2014年のこと。島根県出身のプロテニスプレーヤー、錦織圭選手が「のどぐろが食べたい」と発言した瞬間でした。地元の味への愛着が込められたその一言が、メディアを通じて全国へと広がっていったのです。
さらに時を同じくして、人気料理番組でも取り上げられたことで知名度は一気に高まりました。10年以上前の出来事ですが、産地の方々にとっては、あの頃の急な注文増加が今も鮮烈な記憶として残っているのではないでしょうか。ひとりのアスリートの素直な言葉が、地域の食材を一躍食卓の主役へと押し上げた。食の世界における、そんな劇的な瞬間でした。
そんな転機を経て、のどぐろの名は産地を超えて広がっていきました。
日本海沿岸の名産地を巡る
北海道から沖縄まで広い範囲で獲れるのどぐろですが、その名が定着しているのは新潟県以南の日本海側です。富山県、石川県の金沢、福井県、兵庫県の香住、鳥取県の境港、島根県の浜田・大田・出雲・松江、山口県の下関、長崎県の対島——これら沿岸の漁港で長く親しまれてきました。
島根県の浜田漁港で水揚げされるのどぐろは、特に脂の乗りが良いと評されています。寒風の吹きすさぶ日本海で育った魚体には、その土地ならではの味わいが凝縮されているのでしょう。
産地によっては、回転寿司店や駅の土産物店でものどぐろを目にすることがあります。普段はなかなか手の届かない高級魚も、地元では気軽に楽しめる。港町の食卓にのどぐろが並ぶ風景——そこには、海と共に暮らす人々の暮らしが今も息づいています。
脂の乗りと部位ごとの味わい
北陸や山陰の料亭で膳に運ばれてくるのどぐろ。箸で身を割った瞬間、ふわりと湯気が立ち、鼻をくすぐる潮の香りが漂う。一口頬張ると、脂が乗った白身が舌の上でじんわりと溶け広がる感覚に包まれます。「白身のトロ」と称される所以を、その瞬間に理解するのです。
この魚の面白さは、一口食べただけでは終わりません。部位によって脂の乗り方が異なり、それぞれに最適な調理法が選ばれます。頭の周りは脂が濃厚で、アラ煮にすると出汁にコクが滲み出る。中骨周辺の身は繊維が細かく、刺身にすると繊細な食感が際立つ。尾に近い部分は脂が控えめで、あっさりとした味わいを楽しめる。一尾の魚の中に、これほど多彩な表情が広がっている。
市場で良質の個体を見分けるには、いくつかの印があります。目が澄んでいること。エラが鮮やかな赤色であること。身に弾力と艶があること。これらは鮮度の証しであり、その魚がどれだけ丁寧に扱われてきたかを物語る。料亭の板場で、仕入れの際に必ず確認するポイントなのです。
一尾の魚が紡ぐ物語
のどぐろという魚をめぐる旅を振り返ると、一匹の魚が持つ物語の豊かさに心を打たれます。アカムツという正規名称と、喉の奥の黒さに由来するのどぐろ。この二つの名前が共存しているのですね。
かつて日本海沿岸の漁師町では、この魚をひっそりと味わうのが日常でした。新潟から島根、長崎の対馬に至るまで、それぞれの土地で大切にされてきた地域の味。それが2014年、ある転機を迎えます。きっかけはメディアでの紹介でしたが、単なるブームという言葉では片付けられない、その後の広がりがあります。
次に店頭でこの赤みがかった魚を見かけることがあれば、その背景を思い出してみてください。冷たい日本海で育まれ、地域の食卓を支えてきた歴史。名前の違いや、かつて地元で静かに消費されていた時代のこと。一尾の魚が運んできた物語を味わう。それもまた、食の楽しみ方なのかもしれませんね。























