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ひしおとは何か?醤油と味噌の原点をたどる発酵調味料の歴史

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醤油でも味噌でもない「ひしお」への入口

本記事では、調味料としての「ひしお」を扱います。食卓の脇役をたどっていくと、いつか必ず行き着く調味料があります。ひしお、漢字では「醤」。大豆や麦、塩、水を発酵させて仕込む、日本の伝統的な発酵調味料です。現在の醤油や味噌のルーツとも言われ、発酵がもたらす深い旨みと独特の風味を特徴とします。ただし、その主原料については、大豆・麦・塩・水とする説明のほか、大豆・大麦・塩とする例、麦麹・豆麹・醤油・水を用いる現代の作り方もあり、一様ではありません。

醤油でも味噌でもない。けれど、そのどちらにも通じる道の上にある。そんな位置づけだからこそ、語るべき角度は一つではありません。中国に残る記録、日本への伝来、穀醤から醤油への移り変わり、麹と醤油で仕込む現代の作り方、そして地域に残る「ひしお」という名。歴史・分類・作り方・地域文化という四つの軸を並べると、この調味料の輪郭が少しずつ像を結んできます。

その道のりには、資料によって年代や期間の数字が食い違う場面も少なくありません。醤の起源・初出年代は約4000年前、約3000年前、6世紀初頭とする説があり、日本への伝来時期も飛鳥時代、奈良時代、奈良・平安時代と揺れています。現代の作り方で示される発酵期間も、5日〜1週間、10〜14日、2週間と幅があります。食卓の片隅に置かれてきた一語が、実は何層もの時代を抱えている。ひしおという言葉が指してきたものの幅を、順に確かめていきます。

醤(ひしお)とは何か?草醤・魚醤・肉醤・穀醤という分類

原料の違いに目を移すと、ひしおの輪郭はぐっと具体的になります。果実や野菜を塩漬けにして仕込む草醤(くさびしお)。魚を主原料とする魚醤(うおびしお)。肉を使う肉醤(ししびしお)。そして豆や麦などの穀類からつくる穀醤です。四つの名を並べたとき、醤油や味噌へと続く系譜として特に注目されるのが穀醤になります。

ただ、この分類の描き方は資料によって一定しません。農林水産省の「にっぽん伝統食図鑑」は、果実や野菜を主原料にした草醤を最初に置き、魚や肉を原料とする魚醤・肉醤を続けて示します。対して別の資料では、古い時代にまず作られたのは肉醤や魚醤であり、のちに豆や小麦などの穀類を使う醤が広まったと説明されます。ただし、穀醤が始まった時期については、前漢の武帝の在位期とする説のほか、後魏の時代とする説もあり、資料によって幅があります。原料の登場順についても見方が分かれているのです。

同じ種類の醤でも、中国の各地方では気候条件や加工原料の違いに合わせて加工方法が変わってきたとされます。つまり草醤・魚醤・肉醤・穀醤という四分割は、原料別の整理の一例にすぎません。どこを起点に語るかは、時代や地域、資料の視点で揺れる。それでも、穀類からつくる穀醤が醤油のルーツとされる点は、この四分類を語るうえで外せない視点です。

約4000年前か約3000年前か:中国に残る醤の記録

「醤」という一字が中国の文献に現れるのは、いつごろなのか。ここで資料の足並みがそろいません。

周の法制度をまとめた『周礼』には、醤に関する記述が見つかります。時代は紀元前722年から紀元前481年ごろの周。宮廷では王の膳に添えるため、百二十種もの醤が用意されていた、と記されています。百二十種。調味料の品書きとしては、ちょっとした宴の規模です。

一方で、もっと古い時代を指す資料もあります。国内の公的機関による解説では、約4000年前の中国の農業書が醤の初出として挙げられることがあります。ただし、そこで名が挙がる書物は一般に6世紀ごろの成立とされ、約4000年前という年代とはそのままでは重なりません。これに対し、醤の歴史をたどる資料では約3000年前とする記述や、『周礼』を起点とする見方が示されることもある。約1000年の開きは、いったいどこから来るのでしょうか。

原因のひとつは、「醤」という語が何を指すかの幅でしょう。塩漬けにした肉や魚、穀物を発酵させたものまで、同じ一字で呼ばれてきた可能性があります。大豆を用いた穀醤についても、その開始時期は前漢の武帝のころとする見方から、漢の時代、あるいは後魏の6世紀とする見方まで幅があります。何をもって醤の始まりと数えるかで、遡る年代は変わってきます。

『周礼』の百二十種という数字も、実在の献立表というより、宮廷の食制を象徴的に記したものと読む向きがあります。ただし、これは推測の域を出ません。記録が示しているのは、少なくとも周の時代には、醤が王の食卓を構成する要素として位置づけられていたという事実です。

年代の食い違いは、資料の不備というより、醤という言葉が長い時間をかけて意味を広げてきたことの裏返しなのかもしれません。

遣隋使・遣唐使が運んだ味:日本への伝来と大宝律令

海を渡ってきたのは、制度や文物だけではありません。発酵の知恵も同じ船に乗っていた——醤(ひしお)の伝来を、そう説明する資料があります。船が運んだのは、モノではなく手順だったのかもしれません。

都に律令の文字が並び始めたころ。政治の形を整えた朝廷は、大陸の文物や技術を次々と取り入れました。発酵調味料である醤も、その流れの中で日本に届いたと考えられています。伝来の時期を奈良・平安時代に置く見方が、ここにあります。

ただ、時期の特定は簡単ではありません。遣隋使や遣唐使の往来とともに伝わったという見方もあれば、大宝律令で体制が整ったころに宮中で製造が始まったという見方もあります。仏教の伝来とともに、中国から朝鮮半島を経て九州に渡来したとする経路を想定する説もあり、飛鳥時代に伝わったとする見方を示す資料もあります。奈良時代のうちに調味料として定着したとする説もあり、資料によって力点の置き方は変わるのです。

律令制度の下で醤の製造に関わった官職や施設についても、名称や役割の書き方には資料ごとの差が見られます。大宝律令(701年)に「主醤」(ひしおのつかさ)という官職名が現れたとする資料がある一方、宮内省の大膳職に属する「醤院」(ひしおつかさ/ひしほつかさ)で醤が造られていたとする資料もあります。誰が、どこで、どのように扱ったのか。細部を一つに絞るのは難しく、検討の余地が残る部分です。

律令制度が整えられたことは、醤にとって一つの画期になったと考えられます。制度の中で扱われる調味料となったことで、その存在は後の時代へ受け渡される土台を得たのかもしれません。

それでも、複数の説に共通して浮かび上がるものがあります。醤は律令制度の枠組みの中に位置づけられていた、ということです。宮中の暮らしを支える調味料として、制度の中に役割を与えられていた。味の話のようでいて、これは制度の話でもあります。時期をめぐる議論は、味の由来をたどる作業であると同時に、制度が何を選び取ったかを問う作業でもあるのでしょう。

穀醤から醤油へ:文献初出をめぐる927年と1597年の隔たり

穀醤から醤油へと至る道筋をたどると、二つの年号が現れます。927年と1597年。醤油の文献上の初出をめぐって示される年代は、600年以上も離れているのです。

927年を初出とする資料が根拠に置くのは『延喜式』です。律令期の宮中で醤がつくられていた流れの延長に、醤油につながる記述を読み取る立場と言えます。対して1597年を採る資料は『易林本節用集』に注目します。辞書に「醤油(シヤウユ)」の語が載った時点を、記録上の出発点とみなす考え方です。制度の中の調味料を起点にするか、言葉としての登場を起点にするか。何をもって初出と呼ぶかの基準が違えば、年号が大きくずれるのも不思議ではありません。

穀醤を醤油の源流と見る流れも、この基準の揺れと切り離せません。穀物を塩とともに発酵させた穀醤が、やがて液体の調味料へと姿を変えていく。その過渡期をどこに置くかによって、927年にも1597年にも重心が移ります。ただし、大豆を用いた穀醤が始まった時期については、前漢・武帝の在位期とする見方、漢時代とする見方、後魏の時代とする見方など、資料によって幅があります。

醤油醸造の中心地として名が挙がる地域も、一つには定まりません。奈良県を挙げる資料もあれば、中国から朝鮮半島を経て九州に渡来したとする資料もあり、力点の置かれる土地は異なります。その幅そのものが、醤油の来歴が一本の線では語れないことを示しています。

二つの年号の隔たりは、どちらかが誤りだという話ではありません。記録の性格が違えば、同じ問いへの答えも別の形になる。927年と1597年は、そのことを静かに教えてくれる数字なのです。

麦麹・豆麹・醤油で仕込む:材料と発酵期間の幅

現代のひしおは、麦麹と豆麹、醤油、そして水という限られた材料から仕込みます。麹は穀物に菌を育てたもの、醤油は大豆と小麦を塩で発酵させた調味料です。発酵食品どうしを重ね合わせる——この仕込みの実像は、そんなふうに言い換えられるかもしれません。

清潔な保存容器に麹を入れ、醤油を加える。麹が持つ甘い穀物の香りに、醤油の塩気と旨みの匂いがすっと重なります。混ぜ始めると、粒がほぐれるにつれて香りが立ち上がり、台所の空気が一気に発酵の気配へ変わる。この段階では、麹と醤油はまだ別々に自己主張しているように感じられます。

そこからが時間の仕事です。完成までの期間は資料によって幅があり、5日から2週間程度まで開きがあります。たとえば、麹と醤油と水を混ぜて室温で5日から1週間ほど置く作り方や、気温20度ほどの部屋で10日から14日ほど置く作り方、仕込んだあとは1日1回混ぜながら2週間で完成と案内する作り方があります。混ぜるという単純な動作の積み重ねが、二つの材料をひとつの調味料へ近づけていく工程です。

短期間で切り上げるか、2週間じっくり置くか。この差は、麹の種類や仕込み量、あるいは完成の基準をどこに置くかの違いによるのでしょう。麹調味料のひとつとして、炒め物や漬物など幅広い料理に使えると紹介される例もあり、仕込みの手軽さと相まって、現代の食卓に戻ってきた調味料なのだと考えられます。

醤油蔵からアートスペースへ:岡山・勝山に残る「ひしお」の名

岡山県真庭市勝山に、醤油蔵を改装した文化施設があります。名は、勝山文化往来館ひしお(Hishio)。醸造の場だった建物は、いま工芸・彫刻・絵画などの作品展やミニコンサート、朗読会などの会場として使われ、貸しスペースとしても開放されています。

館内ではカフェが営まれています。カフェの営業時間は11:00から16:30まで(ラストオーダー)で、火曜と水曜が定休日です。施設全体の定休日は水曜日で、駐車場も用意されています。一杯ずつ丁寧に淹れられたコーヒーを楽しみながら、ゆったりとした時間を過ごすことができます。

調味料を仕込んだ場所で、作品が並び、喫茶の席が開く。用途は変わっても、「ひしお」の二文字は建物の名前として残りました。醤油や味噌へと姿を変えていった言葉が、ここでは土地を指す呼び名としても機能している。地域の記憶としての「ひしお」が息づく一例です。

発酵の記憶を次の食卓へ渡す

台所に麹と醤油が並びます。混ぜて、待つことおよそ2週間。それだけで、醤油でも味噌でもない何かが生まれます。材料は麦麹や豆麹、醤油、水。実に素朴な面々です。

長い時間のなかで、ひしおは醤油と味噌という二つの道へ分かれていきました。けれど、分かれ道に立っていた当の調味料が消えたわけではありません。今の台所にある麹と醤油を使えば、ひしおは家庭の食卓へ戻ってくる。資料のなかにだけ眠るのではなく、日々の発酵として生き続けているのです。

年代の記述が資料ごとに食い違うのも、それだけ長く語り継がれてきたからこそでしょう。約4000年前とする説もあれば、約3000年前、6世紀とする説もあり、日本への伝来も奈良時代、飛鳥時代と幅があります。歴史は一直線に進んだのではなく、名を変え、姿を変えながら枝分かれしてきた。だからひしおを仕込む時間は、過去の再現ではなく、次の食卓へ記憶を手渡す作業に見えてきます。

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