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琥珀色の雫が紡ぐ、2000年の物語
アマルフィ海岸に面した小さな港町、チェターラ。朝もやの中で漁師たちが水揚げするカタクチイワシの群れから、独特な香りが漂ってきます。それは、この町で2000年もの間守り続けられてきた発酵調味料、コラトゥーラ・ディ・アリーチの香りです。
初めてこの琥珀色の液体を口にしたとき、舌の上で魚の旨味がじんわりと溶け出す感覚に驚きました。塩辛さとは異なる、深くまろやかなコク。タイのナンプラーと同じ「魚醤」という仲間でありながら、南イタリアの風土が育んだ独自の表情を持っています。
この一瓶に詰まった歴史と、現代の食卓で輝くその価値。これから辿る物語は、海と人が紡いだ時間の深さを映し出しています。
コラトゥーラとは何か?イタリアを代表する魚醤
イタリアの魚醤、コラトゥーラ。正式名称は「コラトゥーラ・ディ・アリーチ(Colatura di alici)」といい、この「アリーチ」こそがカタクチイワシを指しています。原料はシンプルで、カタクチイワシと塩だけ。この二つを発酵させて作られる調味料です。
産地はカンパニア州の港町チェターラ。アマルフィ海岸沿いに位置するこの町で、古くから伝統的に作り続けられています。2020年には、チェターラ産のコラトゥーラが正式な産地名を冠してDOP認証を取得しました。
世界の魚醤という視点で見ると、タイのナンプラーやベトナムのニョクマムと並んで知られる存在です。アジアの魚醤と同じ系統ながら、イタリアを代表する伝統的な魚醤として独自の地位を築いています。
ところで、アジアの魚醤といえば日本にも「瀬戸内コラトゥーラ」という商品があるのをご存知でしょうか。酒粕を加えて作られる、日本人の味覚にあったコラトゥーラです。なんと旨味成分であるアミノ酸が、イタリアのコラトゥーラの1.5倍だそうです。
職人技が生む琥珀色のエキス
アマルフィ海岸の漁師町で受け継がれてきた製法を辿ると、シンプルでありながら気の遠くなるような忍耐強さが見えてきます。
まず水揚げされたカタクチイワシの頭と内臓を手作業で取り除く。この下処理こそが、雑味のない澄んだエキスを生む第一歩です。その後、塩とイワシを交互に層になるよう樽へ詰め込み、ひたすら熟成を待ちます。
樽の中でじっくりと時間を重ねると、やがて上部に琥珀色をしたエキスが溜まっていきます。職人は樽の中心に穴を開け、この貴重な液体を丁寧に取り出す。ろ過を経て、ようやく瓶に詰められるのです。
熟成期間は一般的に数ヶ月から3年程度とされ、長いものでは3〜4年を要すると言われています。気候や温度、さらには職人の判断によっても異なるのでしょう。ある生産者が「急いではいけない。魚が教えてくれるのを待つんだ」と語っていたのが印象に残っています。自然の発酵という気まぐれなプロセスと向き合う、それが伝統の味を守るということなのかもしれません。
古代ローマのガルムから受け継がれた味
一滴、パスタに落ちる。その瞬間、海の香りが立ち上る。このコラトゥーラという調味料のルーツを辿ると、なんと古代ローマの時代にまで行き着くのです。
当時、ローマの人々は「ガルム」と呼ばれる魚醤を日常的に使っていました。様々な魚の内臓を塩漬けにし、発酵させてつくるこの調味料は、肉料理にも魚料理にも欠かせない存在でした。ところが、ローマ帝国の衰退とともにガルムの製法もまた、歴史の彼方へと消えていったかのように見えます。
しかし、そう簡単には消えなかったのです。
南イタリアの海岸線に目を向けると、ある漁師町がこの伝統を静かに守り続けていました。チェターラという小さな町です。ここでは今も、カタクチイワシ(イタリア語でアリーチ)だけを使った魚醤作りが続けられています。ガルムが様々な魚種を用いていたのに対し、コラトゥーラはイワシに特化した点が大きく異なります。
古代ギリシア起源説もあるようですが、現存する製法と歴史的記録を照らし合わせると、ローマのガルムから派生したという見方が有力です。中世を通じて修道院や漁師の家庭で細々と、しかし確実に受け継がれてきたこの技術は、現代のチェターラで町の特産品として息づいています。
総菜屋さんから専門店まで、町の至る所で売られているという。それほど、この味は地元の人々の生活に根付いているのですね。
クリスマスの食卓に欠かせない味
チェターラの人々にとって、コラトゥーラは単なる調味料ではありません。古くから庶民の台所を支えてきた、生活の一部なのです。
この小さな漁師町では、カタクチイワシから丁寧に抽出された琥珀色の液体が、特別な日の食卓を彩ってきました。とりわけ重要なのが、クリスマス前夜。家族が集うこの大切な時間に、人々は感謝の気持ちを込めてコラトゥーラを使った料理を味わう習わしがあるそうです。
街を歩けば、その愛着の深さが伝わってきます。地域のレストランによっては、好みに合わせて味を調整できるよう、唐辛子入りのコラトゥーラがセットで提供されることもあるそうです。総菜屋や専門店でも広く扱われ、日常食から祝いの席まで、あらゆる場面に寄り添っています。
長く愛されてきた庶民の味が、地域の誇りとして新たな一歩を踏み出しました。
仕上げに一滴:パスタが変わる魔法
料理の仕上げに少量加えるだけで、味に深みが生まれる。コラトゥーラの使い方は、実にシンプルです。特にパスタとの相性が良く、ペペロンチーノのようなオイルベースのシンプルな料理に加えると、家庭で作ったとは思えない本格的な一皿に変わります。
加えるタイミングは火を止める直前。仕上げの段階で鍋にひと回し、馴染ませる程度で十分です。これ以上加熱を続けると香りが飛んでしまうため、早めに火から下ろすのがコツと言えるでしょう。
塩みとうま味を兼ね備えた万能調味料として、素材の味を引き立てる役割を果たします。アンチョビを使わずに魚介の風味を足したいとき、あるいは塩加減に奥行きが欲しいときに心強い味方になりますね。
一瓶に詰まった海と歴史
カンパニア州の港町チェターラで脈々と受け継がれてきたコラトゥーラ。その琥珀色の液体には、カタクチイワシの旨味だけでなく、遥か昔の食卓の記憶が封じ込められています。
一瓶のガラス瓶を手に取ってみる。中にはチェターラの海と、職人たちの忍耐強い営みが凝縮されています。パスタにひと垂らし加えるだけで、アマルフィ海岸の風景や、遠い昔の食卓の営みが鮮やかに蘇ってくるような気がします。調味料という枠を超えて、歴史そのものを味わえる——それがコラトゥーラの真価なのかもしれません。






















